
■『中央青年の家』の歴史と世相
この項では、世相の移り変わりと青年の家の変化を追いながら、その時代その時代で青年の家が果たしてきた役割・期待されていた役割を見ていきたい。歴史の流れの中での青年の家の姿を考えることにより、未来の姿を考察する一助とするためである。考えるヒントの例として、国立中央青年の家をあげる。
1.創設期(昭和34年〜昭和39年)
昭和34年に米軍のキャンプ・フジに隣接する娯楽施設の返還を受け、跡地を青少年のために活用することになった。国立中央青年の家は皇太子殿下(現.今上天皇陛下)の御成婚に際し、国民的記念行事の一環として設立された。
この頃の高校進学率は54.5%であった。戦後の混乱期に子供時代を過ごし、価値観の大きな変化を経験した層が逐次青年期にさしかかった時期で、世の中が乱れて規律が求められた時代であった。青少年の非行が戦後第二のピークと呼ばれたのがこの頃である。また、60年安保を翌年に控えた騒然とした世相の中で、この年の大きな事件として伊勢湾台風・三池炭鉱争議などがあった。経済面でもエネルギー政策が石炭中心から石油への移行が表面化し、また、前年に1万円札が登場するなど、戦後の大きな転換点の中で青年の家はスタートした。
国立青年の家は、文部省設置法(現在は文部省組織令)に「団体宿泊訓練を通じて健全な青年の育成を図る」と位置付けられたが、利用者の半数以上は勤労青年であり、職業訓練を視野に入れつつ、青年たちに欠けている社会性を供給する基地としての役割を期待されて団体宿泊訓練の技法が開発された。青年の家の現在の利用の中心(約7割)となっている学校利用は、勤労青年の利用を優先したこともあり、まだ全体の1割強であった。開所より10年ほどは、利用者の6割以上を勤労青少年が占めるという状況であった。最低必要な物があればよしとする時代で、食べる、泊まるがしっかりと確保されていることが何よりも求められた。
2.発展期(昭和40年〜昭和49年)
年間15,000人の利用からスタートした国立中央青年の家は、その後、利用者が順調に伸び続け、4年めに10万人を突破した。また、全国でも青年の家の設置が相次ぎ、国立青年の家の目指した「団体宿泊訓練を通じて健全な青年の育成を図る」という目標は社会に浸透し、広く理解され、多くの成果を上げてきた。
しかし、昭和46年の約15万人をピークに中央青年の家の利用者は減少を始めた。時代は“便利さ”を追い求めるようになり、電気洗濯機・電気冷蔵庫・TV(白黒)などの家電製品の普及率が90%を越えたのもこの頃である。世相は70年安保とその前後の混乱期にあたり、世界的にもベトナム反戦運動を中心とした“怒れる若者”の時代と呼ばれ、権威や権力に公然と反抗・敵対することが若者の存在意義とさえ言える時代であった。わが国でも全共闘とその挫折、学生運動の過激化によるよど号・浅間山荘事件等が世間の耳目を集めた。また、高度経済成長によってGNP世界第2位の経済大国となった一方、公害が本格的に顕在化した時代でもあり、急激な社会構造の変化に対し、あらゆる世代がとまどいと不安を感じていた時代でもあった。
昭和46年に高校進学率は85%となり、社会教育審議会はこの時代相をふまえ、『急激な社会構造の変化に対処する社会教育の在り方につい
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